・自己の責任ではどうしようもない事に対する自己責任 - opeblo
経済的に貧しい状況にあるという原因は、大別して自分に責任がある場合と、社会や環境に責任がある場合があるのだから、後者の原因によって経済的に貧しい状況にあるというのであれば「社会や環境に責任がある」と明言することは間違ってはいない。だが、実際には後者の原因によってではなく、前者の原因によって先の状況にある人も「社会や環境に責任がある」と明言することがあり、外野はこれを先の主張と混同してしまうことで「『社会や他人のせいにするな、努力しろ』」と反発するのではないか?
経済的な困窮の原因というのは他者からは判りにくいものであり、その人に原因の責任が存在するのか、それとも第三者に原因の責任が存在するのかというのは、そう簡単には把握することはできない。だから、外野である人々も「『社会や他人のせいにするな、努力しろ』」とか、こうすればいいんじゃないのとか、そういう言葉を安易に発してはならないのであろう。
また、経済的な困窮の原因は主観的に見ても判り難い場合もある。例えば、自分が就労していないから経済的に貧窮している状況においては、就労できない原因というのは、その者の怠慢かもしれないし、日本社会における「新卒」一辺倒の傾向によるものかもしれない。客観的に責任の所在がその者にあったとしても、主観的には責任の所在が社会にあると思っていれば、当然に外野から「『社会や他人のせいにするな、努力しろ』」という言葉が出てきても何ら不思議ではない。だから、困窮している側の人も安易に責任の所在を言及することは避けたほうが良い。
しかし、それでは何の解決にもならないことは明らかである。
主張するということは、いくらその内容が至極真っ当なものであったとしても、当然ながら正当な批判に晒されることはもちろん、訳のわからない、本旨に沿わない批判に晒されることもありうることを前提として考えねばならない行為である。そして、酷な話かもしれないけれども、主張する側は自らの主張内容を、そうした人々に説明するという行為が付随するのである。これは社会的・経済的弱者にあろうが、強者にあろうが、当然に行わねばならないものなのである。 たしかに社会的・経済的弱者にとって、主張し、批判者に対して説明をしなければならないということは難しいことかもしれない。社会的・経済的強者にとって、声高に主張することはもちろんとして、自らの立場を利用して説明するという行為を省くこともできるからであり、弱者においては同様の行為をすることは難しいからである。
だが、社会においては、賛同者を得なければ自らの主張を通すこと、実行に移すことはできないのであって、この主張するというプロセスを飛び越しておきながら自らの主張を人々の行動に反映させようとすれば、おかしなことになることは自明である。
よって、主張することと説明することをセットにして、これを粘り強く続けていくことが必要であり、文字通りそれが叩き潰されようとするのであれば、そうしようとする人々に向かって説得する必要は、主張を通す上ではある。そうであるにも関わらず、弱者による主張に社会が寛容になったとしたとき、弱者と強者の境界線をどこに見出すのであろうか。
ただ、頭ごなしに他者の意見を叩き潰そうとする意図で「『社会や他人のせいにするな、努力しろ』」とするのであれば、それは間違いである。なぜそう思うのかを相手方にしっかりと伝えなければ、意味のない言動であり、批判の体をなさない。その意味ではこれを言われる側の立場の人も、あまり気にする必要はないのではないかと、特に本件においては強く思う。
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